昨日、娘が登校を渋って、学校を休んだ話をしました。
下の二人を保育園に送ったり、朝ご飯の片付けが終わったりして、9時くらいになると、娘は何事もなかったように、絵を描いたり、粘土遊びを始めました。
「元気ならなんで行かなかったんだよ!」と怒るべきところでしょうか。
みい太もちょっとそんな言葉が浮かんでしまったのですが、以前娘が、
「保育園の方が楽しかった。」
と言っていたんですよね。その言葉が引っかかっていて。
入学間もない頃、「保育園と小学校の違い」という記事で「小学校と保育園の違いに娘が対応できるか心配」という話をしましたが、やっぱり・・・という感じです。
娘は、時間を忘れて好きなことに没頭するタイプです(ここはみい太にそっくりです)。
保育園はそれが許されていたけど、小学校は時間で区切られて、集団の輪を乱すことは許されない。娘はうまく言語化できませんが、それがストレスなんじゃないか、と思います。
昨日もみい太が怒って、無理やり着替えさせて、無理やり車に乗せて送って行けば欠席にはならなかったんだろうけど、それが意味あることとは思えませんでした。
午後8時近くになって、妻が帰ってきて、娘が休んでいたことを知ると驚いて「なんで?」と娘を呼んで話を聞いていました。妻も教員だから、先生に呼ばれて指導されているみたいな感じになってしまって(苦笑)。娘も苛立って「~!」と声にならない声を上げていました。
現役の教員である妻は、
「いい?嫌でも行かなくちゃいけない時があるの!」
と叱っていました。みい太も若い頃、仕事が辛い時、
「これが社会人というものなんだ、この苦行に耐えなければ大人じゃない!」
と思って、歯を食いしばってがんばった経験があります。
でも、それが当たり前だと刷り込まれてしまうと、辛いことがあってもひたすら我慢してしまう大人になってしまうと思うんですよね。
仕事って苦行なのが当たり前なんですか?
生き生き仕事をする術を模索しちゃいけないんでしょうか。
苦行の練習を小学校1年生からしなければいけないとすると、かなり暗い人生が待っているような気がします。
昔から仮病で休むとか、ずるして休むっていうのはあったと思いますが、なんでその子が休みたいと思ったかが大事だと思うんですよね。学校が最高に楽しいところであればそうはなりませんよね。
「多様性を認める」という言葉がよく聞かれる時代になったのに、学校の現場はそうではない。
そうではないというか、先生方の負担は限界に達しているのに、「個別最適の学びを!」なんて言っているから、無理がある。
今の学校現場は先生方の負担が重すぎて、個々に寄り添うのは難しいですよね。中には、全身全霊で寄り添ってくれる先生もいると思いますが、家庭や自分の人生を犠牲にしてくれているのだと思います。持続可能ではありません。
嫌なことからすぐに逃げてしまうようになるのは困るけど、本当に困った時に、我慢して我慢して逃げ場がなくて、最悪のケースになる、ということもあるじゃないですか。
娘には、本当に辛い時に助けを求められる大人になってほしいと思います。
ちなみに、今日は娘はいつもより随分早く起きてきて、元気に学校に行きました。
休むのも良かったんじゃないかな?