学校の授業で宮沢賢治の作品について学習することがあります。有名な、アメニモマケズ。

「みんなにでくのぼうとよばれ、ほめられもせず、くにもされず、そういうものにわたしはなりたい」

っていうあれです。でも、あまりにも有名すぎるんですよね。賢治さんすばらしい! とみんな疑いもなく学習している感じがします。

あれって宮沢賢治さんを取り上げて、何を学習しているんでしょう。道徳の教科書には、内容項目は「よりよく生きる喜び」(道徳の授業には内容項目というテーマみたいなものがあって、「親切」とか、「寛容」とか、いろいろなものがあります。)で、「ねらい」は「人間の強さや気高さに触れ、人間としてよりよく生きていこうとする心情を育てる。」と書いてあります。

でも、なんかうそくさいんですよ。「よりよく生きる」って何なんだろう? ここでの「よりよく」は謙虚さや努力、清貧みたいなことだと思うんです。でも、今の教育のよしとすることって、違いますよね。判断力や創造力、革新性を求めていますよね。

この間、みい太も研修で教わりました。「でくのぼうになりたい」なんて言ったら、笑われますよ。「宮沢賢治か!」って。

そもそも、「道徳」っていう教科自体がうそくさい。内容項目が決まっていて、それに沿った授業をして、通知表に所見を書く。子どもたちは、親と一緒に通知表を読んで、

「この所見に感銘を受けた!今後の生き方が変わった!」って感動するんですかね。

絶対ないよ。

みい太は、道徳の授業で、自分が生きてきた中での、失敗談とか、困ったこと、つらかったことを話しています。それが、親以外で一番身近な大人のできる一番ためになることなんじゃないかと思って。恥ずかしいから研究授業ではやらないけど、普段の授業では、できるだけ自分の経験を話すようにしています。

「友情」なんて内容項目だったら、友達に言われて本当にうれしかった言葉。でも、友達に裏切られた経験、子どもの頃、友達に言われたことですごく嫌だったこと。おじさんが真剣に話すと、子どもたちも真剣に聞いてくれます。そういうのが、みい太にとっての道徳。

研究授業だと、「自分の価値観を押し付けてはいけない!」って言われるでしょうけど。でも、子どもって、そもそも家庭の価値観を色濃く反映しているじゃないですか。学校の先生が少し授業をしたからって、そんなに子どもたちの価値観は変わらないですよ。逆に変わるくらいの話ができたらすごいと思いますけどね。

みい太は、宮沢賢治さん好きです。みい太自身がでくのぼうっぽいから(笑)。「よだかの星」なんて、何度読んでも「じ~ん」としてしまいます。でも、現代でこんな生き方をする人はいないですよね。賢治を授業で扱うなら、社会全体が、思いやりとやさしさをもった世界でなくてはいけないと思うんです。

でも、今の社会全体ってそうじゃないじゃないですか!

どんどん、社会全体が、富裕層や、能力の高い人のためのものになっているようで不安です。いや、実際それをねらっているのかな? 

クラスには、高学年になっても、くっつきの「を」と使えない子や、どうしても漢字を覚えられない子がいるんですよ。

「深い概念的理解を目指さないといけない」

とか、研修では言われるんだけど、どう考えても無理でしょ!

そういう子に、「大丈夫だよ」って言ってあげられる学校、社会にしていかなくちゃいけないんじゃないですか。

宮沢賢治さんだって、先生だったから悲しんでいると思いますよ。本当に・・・。