エンディングノートを書きながら、自分の小さい頃を思い出しました。

母親が育った町に、みい太が小さい頃お世話になった「おじさん」という人がいて。

母親よりも一回りくらい上だったと思うので、今もご健在かはわからないですが、確か苗字は佐々木さんだったと思います。

小さかったみい太は「おじさん、おじさん」と呼んでいました。

自動車の整備工場のようなのを営んでいた方だったと記憶しています。

一階が工場で、住居は2階でした。

工場だったので、住居部分は通常の住宅の3階くらいの高さだったと思います。

うっすらと居間の様子も思い出せます。

車の塗装設備で、みい太の自転車をブルーメタリックに塗装してくれた記憶がおぼろげにあります。

「おじさん」はやんちゃな感じの人でみい太にとっては新鮮でした。

高校教師で真面目だったみい太の父親とは正反対。

みい太の両親はスキーがほとんどできませんが、おじさんはすごく上手で、何度か岩内国際スキー場(今調べたら、「IWANAI RESORT」とヒットしました。リゾート化しているんですね…)に連れて行ってもらったと思います。

紫色のウエアに白いイカ帽をかぶっていたおじさんの姿がこれもおぼろげに思い浮かびます。

でも、やんちゃなおじさんと堅物のみい太の父の相性が悪く、中学生以降は会いに行くことはありませんでした。

中学に上がる時に札幌のアパートに引っ越すことになり、当時飼っていた猫「ミー太」がアパートでは飼えないというので、おじさんの家に預けに行ったのが最後だったと記憶しています。

今、もし「おじさん」に会えたとしても、お互いかなり歳を重ねているので、話が盛り上がることはないと思いますが、たぶん、みい太の記憶にある以外にも色々お世話になったのでは、と思っています。

大人たちの気苦労なんて、子どもはわからないですよね。

そうそう、みい太が3才くらいの頃のこと。

父親と母親が大喧嘩して、母親が「おじさん」を呼んだんですね。

「おじさん」がグレーのジャケットを着て、玄関先に座って、父親と言い合いをしていた様子を覚えています。

みい太は、なんだかいたたまれなくて、父親のお尻を海苔の缶の蓋のようなものでペンペン叩いていました。

「パパやめてよー」

という意味だったのかな。

今自分の息子が3才だから、余計考えさせられるのですが、おそらく子どもに見せてはいけないような修羅場の感じだったんじゃないか、と思います。

3才なのに40年以上経った今も思い出せる。

それくらい強烈な出来事だったんでしょう。

それ以来、「おじさん」と会う時は、母親とみい太のみで、という感じになりました。

小学校1年までは「日の出団地」というところに住んでいました。

日の出団地の頃は父親も若かったからか、高校の教え子が家に来ることがありました。

今では、生徒が先生の家に上がる、なんてあまりないと思いますが、当時は普通だったんでしょうね。

ぼんやり覚えているのは、リーゼントの学ランを着たお兄ちゃん、という感じなので、80年代ど真ん中のつっぱり高校生だったのでしょう。

ドラえもんが見たかったのに、そのお兄ちゃん達が「北斗の拳」にチャンネルを変えてしまって、嫌だったのを覚えています(笑)。

2年からは新しく作られた教員住宅に引っ越しました。

まだトイレは汲み取り式だったけれど。

夏場はおびただしい量のハエが発生して、息を止めてキンチョールを撒きました。

30代の頃、一度だけ、この町に行ってみたことがあります。

その当時で20年ぶりくらい。

大晦日の日、雪深い町をビデオを片手にウロウロ歩き回りました。

なんとなく、記録に残しておきたかったんですよね。

かなり怪しい人だったと思いますが(笑)。

もう行くことはない、と思ったからかもしれません。

自分の幼少期が本当に現実のものだったのか、確かめたかったのかもしれません。

住んでいた教員住宅はまだありました。

日の出団地は雪が降り積もっていたのもあり、よくわかりませんでした。

あまりに寒くて、コンビニでホットドリンクを買いました。

みい太が小学校2年くらいの時に町に初めてできたセブン・イレブン。

レジの人は、小学生の時、同じサッカー少年団にいた、一つ上のチームメイトのお母さんでした。

試合の時に一緒に車に乗せてもらった記憶があります。

「懐かしい…」と、思わず顔を見てしまいました。

時間にして、0.5秒くらい。

少し怪訝そうな顔をされましたが、小さい頃の記憶は現実だったんだ、と思って。

なんとなく満足して帰りました(笑)。

小さい頃の話は、また、改めて詳しく書きます。

今日はここまで。

極めて個人的過ぎて、なんのこっちゃ、という感じだと思いますが、

お許しください。