東日本大震災から15年が経ちました。

当時みい太は、愛知県で小学校の教員をしていました。

地震の起きた2時46分頃は、授業中だったと思います。

みい太は教壇に立っていましたが、少し眩暈のような、気持ち悪い瞬間があったと記憶しています。

後で、それはとても周波の長い地震の揺れだった、ということがわかりました。

東北から愛知に来るまでに波長が長くなったということなのかな。

子どもたちを帰して、職員室に戻るとテレビで各局が地震を報じていました。

仙台空港が水没している様子が映し出されて、

「とんでもないことが起きた」

と思いました。

それから15年経った、3月11日。

ニュースなどで当時のことが報じられ、小さかった子達も大人になっていました。

娘さんの遺骨がようやく帰ってきた、というご両親の姿もありました。

報じられて分かる様子はほんの一部で、

「誰にも何も語りたくない」

という方もたくさんいらっしゃるのではないか、と思います。

自分の判断のせいで誰かが亡くなった、という方、

家族の中で自分だけが生き残ったという方。

かける言葉がありません。

東北地方の学校も甚大な被害を受けました。

児童74名と教職員10名が亡くなった石巻市立大川小学校。

裁判では、2019年に遺族側の勝訴が確定しています。

判決では、学校側の「組織的過失」(マニュアル作成不備)や避難誘導の遅れ、と言った過失を認めています。

みい太も教員でしたから、

あの日あの時、大川小学校に勤務していたら、

と思うことがあります。

近隣の学校では、大川小学校だけが多くの犠牲者を出してしまったそうです。

詳しく調べたわけではないので、軽々しく自分の考えを述べることはできませんが、

小さな判断ミスが重なって、最悪の事態を招いてしまったのではないかと思います。

みい太は、幸いにも教員時代、人の命がかかるような場面に遭遇しませんでした。

でも、数えきれないミスをしてきました。

それでも、今、のうのうと生きています。

この件を巡っては、

「なぜ、裏山に逃げる判断をしなかったのか」

ということが言われますが、

誰もがうすうす、頭の中で、

「裏山に逃げた方が・・・」

と思っていたのかもしれません。

でも人の命がかかるような状況の中で、勇気をもって言い出せなかったのではないか。

後出しジャンケンも甚だしいですが、

自分がその場にいたとしたら、

「皆さん、何をしているんですか!裏山に逃げましょう!」

と言えたのだろうか。

当時30歳そこそこの若いみい太が、そんな判断ができたのか。

管理職や先輩教員に自分の意見を言うことなんてありませんでした。

例え、呼びかけたとして、そんなみい太の言うことをみんな聞いたのか。

はっきり言って、自信がありません。

普段忘れがちですが、

「教員は、子どもたちの命を預かる仕事」

と、いうことを思い出させる出来事だったと思います。

震災さえ起こらなければ、大川小学校の児童も教員も、平穏な日々を送っていたと思います。

逆に、みい太が災害に巻き込まれて死んでいたかもしれない。

今、「普通に生きている」ということの有難さ。

だからこそ、生かされていることの幸せを噛みしめ、精一杯生きなければいけないと思いました。