教員をしていると、いろいろな親に出会います。

よく「親の顔が見てみたい。」と言いますが、めちゃくちゃ見られます(笑)。

教員ならではだと思うんですけど、子どもと親を見比べることも当たり前のようにできます。

この親にして、この子あり。」みたいな。

まあ、多くの場合、立派な親の場合、子どもも立派で、

うーん・・・、という親の場合は子どももうーん・・・というパターンが多いです。

たまに例外もありますが。

でも、これは自分が親になってから気づいたんですけど、子どもを意図的に優秀に育てるのはとても難しいことです。

「本当にこの子はすばらしい!」っていう子はクラスに1,2名。評定でオール3、さらに人柄もよい、みたいな子。学校にもよると思いますが、そんなに多くはいません。

独身の時は、自分の子もこんな子みたいになるといいな(笑)、と思っていましたが、子どもを持つようになると現実はなかなか厳しいことを思い知らされます。

往々にして、すごく厳しい親の元で育った子、というのはあまり成長しない気がします。

行動のモチベーションが「親に怒られるから」となってしまうんですね。怒られなければやらない、という感じになってしまいます。

実はみい太自身がそうでした。

幼少期の自分の親はすごく厳しくて、勉強をしないとよく叩かれました。叩かれたくないから勉強する、って感じになってしまうんですね。

青年期になって、将来について考えようと思った時に、自分自身の軸というものが育っていなかったんですよね。

自分が本当に何をやりたいのかわからない。

結局なんとなく親がやっていた教員を選ぶんですが、辛い時に

「自分で決めたんだ!だからがんばる!」

という芯のような物がないんですよね。

自分が出会った優れた子の親は、物腰の柔らかい方が多かったように感じます。威圧的ではなく、低姿勢。

まだみい太が若い時にも、面談の時に

「今日は、何を言われても受け入れるつもりで来ました。」

と言ってくださった保護者の方がいました。

こんな新任に毛が生えたような教員に低姿勢ですよ。

いやいやあなたの子ども、何の問題もありませんけど(笑)。親がそういう姿勢だから、子どもがおおらかに育つのかな、と思いました。

みい太の父親は教員で母は専業主婦でした。二人ともとても厳しくて、学校では優等生でいなくてはいけない、って感じでした。

やっぱり、教員の子どもって無意識の呪縛があるんですよね。

周囲はどうしても「あの子、教員の子なのに」と見てしまう。

みい太は結構いい子だったので(笑)、必死に期待にこたえ続けました。

でも、やっぱり自分の人生、自分で決めるぞ、っていう時にどうしていいかわからなくなってしまうんですよね。

これは、親世代の方にも伝えたいと思いますが、子どもとはいえ、1人の人間という存在を親の思い通りにできるほど、子育てというものは甘いものではない、ということなんでしょう。

いつかどこかで、反発がでてしまうと思います。そして、子どもはとても弱い存在なので、親の影響を強く受けてしまいます。

幼少期なんて、親の価値観は絶対ですよね。

みい太なんて、親が昔よく見たり聞いたりしていた音楽や映画を今でも見たり聞いたりしてしまいます。

後、みい太の両親は全く酒を飲まず、酒の席が大っ嫌い、と言う人だったので、大人が酒を飲んでいる、という場を経験したことがなくて、成人してから、酒の席での振る舞いがわからず、とても困りました。

親として、

「俺はこういう風に生きてきた。でも世の中、違う考え方をする人もいる。判断するのはお前だ。」

というスタンスはとても大事だと思います。

親って、自分の価値観を押し付けがちじゃないですか。大切だと思うのは、親が自分を客観的に見られることだと思います。

れから親が生き生きとしていること。好きなもの打ち込む姿を見せること。

「俺はこれが好きだ。これじゃなくてもいいからお前も『これ』を見つけられるといいね。」

くらいの余裕が必要なんじゃないんでしょうか。

でも、自分を客観的に見ることも、生き生きとした姿を見せることも、とても難しいですけどね。