自分がすごく子どもっぽい感覚をもっているなあ、と感じることがあります。前回も書いたんですが、「そういうものだから」って思うのが苦手です。
「そうものだから」って淡々と仕事をするって色々わきまえている感じがするけど、つまらないんですよ。みい太は教員だから、無駄な学校行事とかもなくせばいいのに、と思うことがありますが、色々なしがらみ(地域のお偉いさんが続けると言っているとか、保護者の方の強い要望があってとか)があって実際は、「はい、やめましょう。」とはできません。
でも、行事運営側からすると、それをずっとやり続けるというは苦痛なんですよね。先生方が乗り気ではない学校行事ってつまらないことが多いです。コロナ渦は大変だったけど、天災のような衝撃的な事態にならないと古い体質というのは変わっていかないのかもしれません。
それでも、それを耐えて続けるのが大人の対応なのかもしれませんが、じゃあ、大人じゃなくていいです!(笑)って思ってしまいます。
だからかもしれないんですが、子ども(自分の子も学校の子も)とすごく感覚が合うなあと思うことがあります。
子どもが
「なんでやらなきゃいけないの?」
って思った時に、
「そうだよね!そうそう!」
と感じてしまうんですよね。
宿題なんかそうです。なんでやらなきゃいけないのか。別にやらなくてもいいんじゃないか。
「宿題をやるのはあたりまえ」
という感覚は僕にはないです。
もう宿題なんて、「ノートが黒く埋まっていればいいよ」、くらいの感覚で出していました(笑)。漢字何ページとか、やること自体にみい太自身が意味を感じられなかったから。
後、行事も簡素化が進んで、運動会もつまらない。
「運動会の表現はソーラン節なのなんでだろう~♪」
です。テツ&トモじゃないけど(笑)。
なんで?なんでソーラン?って思います。
ソーラン節振興会みたいなところからは怒られるかもしれませんが、でも、ニシン食べたことないような地域の子が昔の漁師さんの気持ちをなぞらえて、本当に踊っているかといったらはっきり言ってNoです。(みい太は北海道生まれだからニシン大好きでしたよ)
意味はよくわからないけど、やらなくてはいけないって、みい太だけに限らず苦痛だと思うんですよね。
これって人生にも通ずるな、と思います。
生きる意味はよくわからないけど、生きなくてはいけない。
って苦しいですよね。
自殺する人は生きる意味よくわからなくなって死んじゃうんじゃないでしょうか。
人間、意味を求めるものなんだなあと思います。意味を押し殺して、ただやらなくてはいけない、生きなくてはいけない、という時代はもう過ぎたんではないでしょうか。
何か行動する時に自分なりの意味を見出して臨みたいな、と思います。人にやらされるのではなく。
一般論じゃなくていいんです。自分が納得していれば行動するエネルギーになります。
そうやって、自分に言い聞かせて頑張りたいな、と思っている今日この頃です。